そもそも、認知的不協和とは…
認知的不協和とは、アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱されたもので、自分が正しいと考えていることや自分自身の価値観などと矛盾することが発生した場合に感じる不快感のことをいいます。
認知的不協和が発生した場合には、人は次のような行動をすると考えられています
- 認知的不協和の不快な状態を解消するために、矛盾しているものの一方を変えようとする
- 認知的不協和の不快感が大きいほど、より一層、その不快感を少なくしようとする
つまり、認知的不協和を簡単に説明すると…
- 「自分はこうしたい」「自分はこう考えている」ということと「矛盾すること」が起きる
- それを「不快」に感じる
- その「不快な状態を解消するための発言や行動」をする
認知的不協和は、日常生活のあらゆる場面で起こります(認知的不協和の具体例)
タバコは体に悪い。でも、私はタバコを吸う。
このような認知的不協和が起きると、矛盾しているものの一方を変えようとします。
一方を変えるということは、もちろん自分がタバコをやめるのが良いのですが、そう簡単にタバコをやめることができません。
そういう場合には、次のように、自分がタバコを吸うことを正当化するための言い訳のようなものが必要となります
- タバコよりももっと体に悪いものもある
- お酒は体に悪くないのか?
- ストレスがたまったほうが体に良くない
- タバコを吸ってても長生きする人もいるし、タバコを吸っていないのに長生きできない人もいる
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いくら一般的に「善」と考えられていることでも、自分にとって「不快」であれば、その不快を解消するための行動が行われます。
そういう意味では、認知的不協和は、「善」「悪」というよりも「快」「不快」の問題だと言えるでしょう。
勉強しなければならない。でも、勉強したくない。
- 自分が勉強するか(自分自身が変わるか)
- 勉強をしないことを正当化するか(自分を正当化する言い訳するか)
のどちらかになります。
一般的に、勉強をすることは「善」であり「正しい」ことだと言えるでしょうが、勉強をしたくない場合には、次のようにそのことを正当化するための言い訳をすることがあります
- 勉強しても何の役に立たない
- 勉強しなくても、他の人よりお金を稼いでいる人はたくさんいる
- 今から勉強しても間に合わない
- 勉強して良い大学や良い会社に入っても幸せとは限らない
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Aさんは平均的な年収よりも少し高い。でも、私の年収は平均的な年収よりも少し低い。
上記の2つは行動に対する認知的不協和の具体例ですが、これは状態に対する認知的不協和の具体例と言えます。
正直なところ、年収は高くても低くても、ある一定の生活ができればそれでいいと思います。
例えば、誰かが「Aさんは年収が高いみたいですよね~」と言ったのを聞くと、少し不快に感じて、自分を正当化するようなことを言ってしまいそうになることがあります
- 年収が高いからといって幸せとは限らない
- 年収は高いかもしれないけど、他の人の2倍くらい働いている
- 働き過ぎて病気になったら意味がない
- 家族と一緒にいる時間がほとんどないらしい
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Aさんは従業員が何人もいる会社をやっている。でも、私は1人で個人事業主として仕事をしている。
それぞれのスタイルや考え方があるわけですし、どちらも良い点や良くない点がありますので、どちらのスタイルが良いとか悪いとか、そういうことはないはずです。
でも、誰かが「Aさんは従業員が何人もいてすごいですね~」と言ったのを聞くと、少し不快に感じて、自分を正当化するようなことを言ってしまいそうになることがあります
- 従業員が増えればそれだけ仕事上のリスクも増えるよね…
- 本当はどれくらい利益が出てるのかわからないよ
- 従業員っていってもほとんどがパートさんでしょ?
- いくら稼いでも国にいっぱい持って行かれるから、実はそれほど手元に残ってないんじゃない?
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認知的不協和を解消するためにどんな発言や行動をするのかが重要です
認知的不協和の本質は不快感。その不快感をどうやって解消するのか…ということ。
- 自分の考え方や行動を変える
- 自分の考え方や行動を正当化する
のどちらか一方が必要となります。
どちらの選択肢もあるんです。でも、安易で一時的な認知的不協和の解消方法を選んでしまうことがあるんです。
例えば、上記の認知的不協和の具体例の「勉強しなければならない。でも、勉強したくない。」の矛盾を解消するためには、次ののどちらかになります。
- 勉強をする
- 勉強をしないことを正当化する
- でも、勉強をするのも苦痛や不快を伴います
- だから、勉強をするということを消し去ろうとします
- そして、勉強しないことを正当化するために、勉強をしなくてもいい言い訳をすることになります
つまり、自分は何もしないで、何も変わらないで、不快の源となっているその対象を消し去るのが1番早くて簡単なんです
不快の源になるものがなくなれば、とりあえずは不快ではなくなりますから、自分を変えずに、自分を正当化して認知的不協和を解消しようとします。
これを安易で一時的な認知的不協和の解消方法といってもいいでしょう。
「安易で一時的な認知的不協和の解消」ばかりしていると、まったく成長することができなくなりませんか?
もちろん、自分の考え方や価値観を大きく変えたほうがいいということではありません。
でも、自分自身を変えたほうが良いこともあるはずです。
もし、そういうことがいくつかあれば、そのうちのひとつでも変えてみるといいかもしれません。
自分自身の認知的不協和を解消するために、相手に不快感を与えるのはいかがなものなのか…
そもそも、認知的不協和や不快感は「自分自身の問題」なんです
例えば、「自分はBは絶対にダメだと思っている。でも、Bという行動をする人が現れた。」ということがあります。
こういうことが起きると不快に感じることもあるでしょう。
でも、原因や理由はどうであれ、そもそも不快という感情は自分の中から生まれるものなんです
そして、その不快を解消しようとするのかしないのか、解消するためにどのような発言や行動をするのかを決めるのも自分です。
認知的不協和は、原因は外にあるかもしれませんが、不快という感情、発言や行動は自分の中から生まれてくるものです。
認知的不協和の原因も自分の中にあると考えることもできますので、認知的不協和のほとんどが自分自身の問題であると言ってもいいでしょう。
- 自分の不快の解消のために、他人を不快にするのは絶対にやめよう
- 自分を正当化するために、他人を不快にするのは絶対にやめよう
そもそも自分と相手は同じではありません
だから、考え方や価値観が異なるのも当然ですし、感じ方や表現方法が異なるのも当然と言えば当然です。
そもそも同じなわけがないんです。
- 自分の価値観も正しい
- 相手の価値観も正しい
それで良くないですか?
自分が間違っていない限り、否定されても、批判されても、認知的不協和の解消をしているんだと思って、参考程度に留めて、気にしすぎないようにしよう
日本には、昔から「出る杭は打たれる」という言葉があるように、実際には何の問題もないのに否定したり批判したりする人がいます
あたかも、自分が正しい常識人のようなフリをして…
実は、これも認知的不協和の解消なんですよね。
自分の価値観や自分の一般常識感からはみ出していると、それを不快に思って、ヘンな正義感でその出た杭を叩くわけです。
もしかすると、相手は、自分も本当はそうしたいのに、そうできないからなのかもしれません
理由はどうであれ、とにかく不快なんです。
だから、その不快を解消するための行動をしているだけなんです。
だから、何の意味もありませんし、中身はまったくありません。
だから、あなたは、誰かに迷惑をかけていない限り、自分の信じた道を行けばいいんです。
そうれば、あなたの道は拓けていきます。
それと、最も重要なことは、あなた自身も、自分の認知的不協和の解消のために誰かを否定したり批判しないことです。
この記事を書いたのは…
行政書士事務所/社会保険労務士事務所 ビジョン&パートナーズ
大阪市中央区備後町1丁目4番16号
備一ビル501号室
代表 高瀬満成(行政書士.社会保険労務士)